Touji

小説と日記

【小説】 Useless 5

しょぼくれた男の姿は、俺が小学生の頃、姉が拾ってきた仔犬を思い出させた。父は直ぐに捨ててくるように姉に言ったが、彼女は一歩も引かなかった。このまま捨てたら死んでしまうことを分かってて言ってるんだったら、お父さんのこと一生許さない、と言い放った姉の顔は今も忘れない。その頃姉もまだ小学生のはずだったが。
俺の部屋があるフロアでエレベータが止まった。俺は降りずに再びドアを閉め、地下のボタンを押した。
男はさっきと同じ姿勢で、まだホールに突っ立っていた。
「おい、時間があるんだったら、飯に付き合え」
俺の言葉に男は怪訝そうな顔をしたが、何も言わずに後ろから付いてきた。

マンションの向かいにある中華飯店。こんな時間に営業してるのはここしかなかった。
男は、天津飯を喰いながら、正木と名乗った。俺は……と言いかけて、質問に変えた。
「お前、俺の名前を知ってるのか?」
正木は丼から顔を上げずに首を横に振った。
「無茶苦茶だな、お前。顔も名前も知らない奴を待ち伏せて殴ろうとしてたのか」
口に飯を詰めたままで、結局殴っちゃいないだろ、と小声で悪態をついた。
俺は半分喰ったラーメンをテーブルの端に除け、向かいで食べ続けている男の顔をまじまじと見た。
「お前歳はいくつなんだ? 仕事は?」
正木は口の中のものをスープで流し込んだ。
「28。商社勤め」
俺は飲んでいた水を吹きかけた。
「……商社だって? お前が?」
「商社たって、従業員10人の金属商社さ。それなら納得だろ」
「いや、堅気のサラリーマンが人に頼まれて他人を殴るなんて、納得できんね」
奴は目を上げた。
「悪かったよ、この前も今日も。改めて謝る」
「悪い云々の前に、そんなことを請け負うのが信じられないって言ってるんだ。会社にばれりゃ、馘だぜ」
正木は俺の言葉に、考えるような素振りをみせた。
「やっぱ、そうだよな。それが狙いか……」
俺は鼻で笑った。
「お前みたいな奴を嵌めて馘にしたってしょうがないだろ。誰が得をするんだよ」
奴は真顔で答えた。
「3人はいるんだよ、俺に辞めてもらいたがっている奴が」
「そんなに嫌われてるのか。まあ、不思議じゃないがな」
俺の嫌味には反応せず正木は言った。
「このまま行きゃ、来年には俺が社長なのさ。それが気に入らない奴がいるってことさ」
一族経営ってやつか、それならこの間抜けが社長になるっていうのも分からなくはない。
「今の社長は親父か?」
「いや、叔父貴だ」
「じゃ、お前の言った3人ってのは?」
「叔父貴の嫁、息子、愛人。別の言い方をすれば、専務、営業部長、顧問」
俺は店員にグラスを掲げてみせ、水のお代わりを促した。目は合ったが、分かったのか分かってないのか微妙な反応しか返ってこない。ここじゃいつものことだが。
「じゃ、そいつらの誰かが、俺を殴れと唆したってことか」
正木は首を振った。
「いや」
話を続けるかと思ったが、そのまま黙り込んだ。店員が何も言わず、水をグラスに注いで、カウンターの後ろに戻っていった。
「女なんだろ」俺の言葉に奴が顔を上げた。「俺を殴れと言った奴は」
正木はムッとした表情を浮かべた。
「どんな理由で俺を殴れと言ったのか、話してみろよ」
正木はゆっくり水を飲んでから口を開いた。
「ここのところ、あいつと上手くいってないんだよ。だが、この間、久しぶりにあいつの方から電話してきて頼みがあるって言うんだよ」
正木は俺がちゃんと聞いているか確認するようにこっちの顔を覗き込んだ。俺は目で促した。
「で、会って話を聞くと、あんたのマンションに住んでるあいつの女友達がストーカーに困ってるっていう話だったんだよ」
後は大体分かるだろ、というように唇を突き出した。
「その、あいつっていうのは?」
「行きつけのキャバの女さ」
「しかし、いきなり実力行使とは荒っぽい彼女だな」
「あんたが、……いや、そのストーカーが証拠を残さないずる賢い奴で、警察に相談しても全く効果がないって話だったんだよ。だから、少しばかり脅してマンションを追い出して欲しいって」
「彼女と、あんたの会社の繋がりは?」
正木は少し迷ってから応えた。
「社長は知ってる。それ以外の奴は知らないはずだ」正木は首を振った。「だからあいつが俺を嵌めたとは思えないんだよな」
「彼女には動画の事を話したのか?」
「いや、あれから電話をしても全然捕まらないんだ」
完全に嵌められてるじゃないか、という言葉を飲み込んで席を立った。何枚あるか分からないくしゃくしゃの千円札をテーブルに置く。
「釣りをもらっとけよ。さっきのお前の金だ」